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◆ 開拓の歴史 ◆

ビデオ「献堂60周年の歩み」開拓から大熊新会堂献堂まで
 

よくもこのような地に教会が・・・

今でこそ東京電力「福島第一原子力発電所」があるとはいえこの教会が出発した1947年当時は、大野といえば人口2700人の寒村であった。現在旧大野村と熊町村が合併してやっと人口1万となったようなこの田舎町によくぞ福音の種が蒔かれ、キリストの教会が建てられたものである。
実は、この教会の生い立ちは一風変わっていた。
戦後の荒廃したこの地で酪農とキリスト教精神を基盤とした新しい村づくりができないものかとあるアメリカ帰りの男性の心にビジョンが与えられたのが、そのきっかけである。
 

宣教師来る

そのビジョンを実現しようと、彼、すなわち高橋清氏は、早速アメリカから宣教師を呼び寄せた。保守バプテストミッション宣教師フランク・ホレチェク師夫妻である。夫妻の来村を村人たちが、大歓迎し、その住まいを村人たちの手で建てたという光景は今の時代、にわかには信じがたいが、敗戦後の独特の時代の雰囲気だったのであろう。
 

さながらリバイバル

その後、日本人の牧師、柿崎正師と共に大野村を基点として浜通り地方での伝道が始まる。、各地で、路傍伝道、天幕伝道集会、野外映画伝道会などが、頻繁に行われ、100名以上の人々が集まってくることも珍しくなかった。
そして、多くの人々がバプテスマを受けた。特に1949年4月からの1年間で、57名のバプテスマ者があったのは、まさに、リバイバルといってよいであろう。その年のクリスマス会には、なんと500名もの村の人が集まったという。
 

会堂が次々に・・・

翌年1950年1月29日には、大野の教会堂を、献堂している。そして、翌1951年には伝道の勢いは衰えず、バプテスマ者が続き、となりの熊町村にも教会堂を建てた。この教会堂もやはり、村人の多くが建設のために協力して完成したものである。
しかしホレチェク師夫妻は、1952年に6月には祖国アメリカへ旅立ち、その後、短期で滞在することはあったが、ひとまずこの大野での伝道を終え、新たに、秋田、また酒田での伝道に向かった。以後約30年間、1979年まで柿崎牧師がこの教会を牧会、形成して行かれることになる。
 

苦闘

物心両面で貧しさや、惨めさを痛感していた敗戦直後のこの地での米国人宣教師の手によるキリスト教の伝来。当初村人の多くが飛びついたものの4年5年と時間がたち、国の経済も立ち直り始めると、人々の関心はだんだんキリスト教から遠ざかっていった。あのバプテスマを受けた人々の多くもふるいにかけられるようにして、教会から去っていったのである。
特に、礼拝人数5から10名を繰り返す1960年代は、この教会のある意味での、戦いの歴史でもあった。特にこの間、柿崎牧師夫妻がその身に負われた血のにじむような宣教と牧会の働きの労苦は経済的にも精神的にも、言語に絶するものがあったに違いない。以後20年間師ご一家は、牧師館ができるまで教会2階の狭い屋根裏部屋のような住まいでこの働きに従事されるのである。
 

恵みもあふれる

しかし、その苦闘のさなか、「大野こども聖書学園」の開園という恵みがあった。この園は、1952年4月から1976年の夏まで実に24年間にわたって開かれることになるのである。現在でも、昔幼稚園に通っていたということで教会に親しみを持ってくださっている人がたくさんこの町にいる。
1965年には教会墓地が地下式コンクリートで建設された。また、熊町会堂にはバプテストリー、そして、大野会堂には、主に幼稚園の働きのために台所やトイレなどが増設された。こうして、見える建物が整備されるのと同時に見えない教会の土台、信仰告白も1969年に制定され、翌、70年10月には、宗教法人化される。それに伴い、教会名も「大野聖書バプテスト教会」から「福島第一聖書バプテスト教会」へと変更する。
こうして、幾度かにわたる、教会内外の整備が進む中で、1973年には、牧師館完成となり、柿崎ご一家は、そこに居を移される。更に、1975年7月には、教会台所を増改築。翌76年7月には、教会に倉庫、および車庫を建設した。
1979年4月柿崎牧師は、30年にわたるこの地での教会形成の働きを正式に辞任される。その後、米沢の千田次郎牧師の助言をいただきながら、無牧(牧師不在)3年間を守り通した。途中1980年4月からの1年間は、蒔田栄師がこの教会での奉仕にあたられる。
現在の牧師、佐藤彰師は、1982年4月この地に赴任される。師が着任して間もない年次総会で、教会堂建設の決議がされ、会堂建設委員を結成、東京のネヘミヤ建築研究室に設計を依頼した。翌83年10月には献堂式を迎える。新築部分約75坪、改築部分約23坪、更に、台所、物置で約100坪総額4000万もの献金を当時20人余りの教会員でささげることができたのは、一人一人の信仰と、ただ主の恵みである。
 
その後も、不思議に、信徒の心に主はチャレンジを与え、次々と会堂建設をさせていただく。
 1988年9月 熊町チャペル 納骨堂 教育館 台所
 1989年11月 小高チャペル
 1997年3月 いわき希望教会ホール献堂
 1998年4月 桜のチャペル献堂
 

100年もつ新会堂を献堂

1950年に献堂、1975年に改築しホールとして使用していた旧会堂部分を全面的に建て替え、2008年9月大野チャペル新会堂を献堂する。礼拝堂同様ネヘミヤ建築研究室による、鉄筋コンクリート2階建ての、100年使い続けられる建物に教会員皆が感謝し、その後2011年3月まで週2回の礼拝の他、様々なプログラムを行い、教会員の信仰成長のため、地域の方々への伝道のために用いられる。
 


◆ 2011年東日本大震災、流浪の日々 ◆

ビデオ「震災後の旅路」
 

突然の大地震と原発事故

2011年3月11日の東日本大震災と続く原発事故により、献堂まもない大野チャペルをはじめ避難区域にあった4つの教会堂すべてが閉鎖となる。教会員の多くはチャーターしたバスに乗り、会津〜米沢〜東京都奥多摩町にて1年間共に避難生活を送る。その他の教会員は親類宅、借上住宅、各地の仮設住宅など、全国に散らされる。
2012年3月、主のあわれみと世界中多くの方々の祈りとご支援に支えられ、チャペル建設予定地のほど近くに教会員専用のアパート「エル・シャローム・泉」を建設。完成に合わせて奥多摩に避難していた教会員の多くがいわき市に転居。結婚式場の1室を借りて礼拝を行いながら、新会堂建設を進める。各地に避難していた多くの教会員が、再び福島第一での教会生活を送るべく帰福。牧師・副牧師はみことばや外部奉仕の多忙の中、教会員の住居の確保や避難している遠方の教会員の訪問に東奔西走を続ける。
 
◆大分朝日放送が私たちの歩みをドキュメンタリーとして取り上げてくださいました。
テレメンタリー2013「"3.11"を忘れない 原発に一番近い教会」
 


◆ 翼の教会の献堂〜現在 ◆

「泉のチャペル紹介ビデオ」
 

涙の献堂式

2013年5月11日、震災から2年2ヶ月の流浪の旅を終え、福島第一10番目の建築となる泉のチャペル(通称:翼の教会)を献堂。全国より駆けつけご参加くださった約600名の方々と共に、嬉し悲しい涙の献堂式をお捧げする。
その後日本全国、世界各地から多くの方が賜物をお捧げくださり、数多くのイベントやコンサート、キャンプなどが催され、地域の方々も多く教会に足を運んでくださるようになる。地域に愛され地域を愛し貢献する教会にとの祈りとともに、教会主催の無料プログラムやホールの貸し出しなどを通し、ますます主の栄光を放ち用いられて行きたいと願っている。
 


 

◆ 心からの感謝を主に、皆様に ◆

皆様の熱いお祈りとご支援を心から感謝いたします。70年前、今は人の立ち入ることのできない大熊町にこの教会を建てた宣教師は「いつかいわきの地でも伝道を」と言っておりました。癒えない傷はありますが、時にかなってすべて美しいことをなされる主の導かれるままに、そのみゆるしの中で、これからも救いを証しする群れとして用いられるよう、続けてお祈りに覚えていただければ幸いです。
皆様に主の祝福が豊かにありますように。栄光が天にありますように。
感謝とともに、主に在って。
 
 

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